IN  HIRAO   平尾山荘

いや重け 吉事

万葉集のラストを飾る大伴家持の秀歌 「新しき年の初めの初春のけふ降る雪のいや重け吉事」より。

  「いや重け吉事」=良い事が重なりますように

作者

池松 一隆

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マンション外観

平尾山荘

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〒810-0014 福岡県福岡市中央区平尾5丁目9−21

「ベルメゾン平尾山荘」歴史背景とゆかりのスポット

平安時代、平清盛が「袖の湊」を博多津に開いた当時の博多津を描く住吉神社蔵「博多古図」では、
内海「冷泉津」と「草香江」を隔てる小高い丘陵地に「平尾村」の名前が伺えます。

平尾山荘

平尾山荘
(福岡市中央区平尾5丁目)

幕末の女流歌人、維新の先覚者野村望東尼(のむらぼうとうに)の草庵 野村望東尼(本名は「モト」)は文化3年(1806)9月6日、 黒田藩士浦野重右衛門勝幸の三女として、福岡城の近傍南谷の御厩後(現在の中央区六本松三丁目付近)に生まれました。 和歌に秀で、この山荘を詠んだ和歌の秀作「音もなき寛の水のしたたりもたりあまりたる谷の一つ家」があります。 54歳の時、夫を喪い、博多の曹洞宗明光寺住持元亮巨導禅師によって剃髪し、向陵院招月望東禅尼となりました。

このころから勤王の志を抱き、平野国臣、中村円太、長州の高杉晋作を庇護しました。 しかしながら、徳川幕府体制の維持を図る藩内の勢力により、勤王派を一網打尽に処刑するに及んで、慶応元年(1865)望東尼も捕えられ、 姫島(糸島郡志摩町)に流されまた。幽閉11カ月、望東尼が姫島に流されたことを知った高杉晋作に救い出されて馬関(下関)に移り、 その後62歳で没しました。

高杉晋作の有名な辞世の句、「おもしろきこともなき世におもしろく」下の句に「すみなすものは心なりけり」とつけたのは望東尼だと言われています。 残念ながら望東尼自身も その数カ月後に明治維新を目にすることとなく亡くなっています。 その後、平尾山荘は荒れ果てた状態になっていました、明治に入ってから再建され、現在では公園として整備されています。 幕末維新のパワーとロマンを残すスポットとして、多くの人々が訪れ続けています。