IN  SYODAI   昭代

∞未来・今ここから

-この地より始まるあなたの未来は、無限大の可能性を秘めて・・・・

作者

池松 一隆

この彫刻があるマンション

マンション外観

昭代

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〒814-0012 福岡県福岡市早良区昭代2丁目13−2

「ベルメゾン昭代」歴史背景とゆかりのスポット

※参考の一言:地名に使われている「昭代」のそもそもの意味とは、「よく治まり、栄えているめでたい世」。この言葉は、夏目漱石も小説に使っています。

麁(そ)原(はら)元寇古戦場

一.麁(そ)原(はら)元寇古戦場 
(現:祖原公園 福岡市早良区昭代1丁目)

祖国防衛の最前線、元軍から日本を守り切ったパワースポット
文永11年(1274)10月、元と高麗の連合軍は今津から百道原に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂の一帯は戦闘の地と化しました。 この時、激戦場のひとつとなったのが元軍が陣を構えた百道浜の後背地にある麁原山です。 日本軍は少弐景資、肥後の菊池武房、竹崎季長らがこれを迎え討ち、血戦の末、みごと祖国を守り抜き、元軍は船に引き上げた後、 侵攻を断念して日本から撤退しました(文永の役)。

竹崎 季長(たけさきすえなが)

竹崎 季長(たけさきすえなが)は、鎌倉幕府御家人。肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身。菊池氏の一族。 文永の役において息の浜に陣を敷く日本軍総大将・少弐景資に、元軍への先駆け(先方突破隊)を申し出てたのは竹崎季長です。 景資もそれを許可し、季長は5名で元軍へ突入し、現在の赤坂~鳥飼付近で負傷しながらも奮戦し、元軍敗走の一役を担いました。 元軍はその夜に博多湾から撤退し、文永の役は終結します。

猿田彦神社

二.猿田彦神社

ものごとの最初にご出現になり万事最も善い方へ「おみちびき」になるパワー絶大な大神様「猿田彦大神」を祀る。 古事記、日本書記などにも「国初のみぎり天孫をこの国土に御啓行(みちひらき)になられた」と伝えられ、 天孫降臨の際、天照大御神の命により邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した神様として有名です。 この地の猿田彦神社は唐津に延びる長崎街道の出入り口に建立され、数百年の歴史を紡いでいます。 以来、60日ごとの庚申(かのえさる)の日に祭りを行い、猿にちなみ「災難が去る」「幸福が訪れる」という信心を集めてきました。 毎年初めの庚申の日である初庚申大祭には多くの方々が参拝に訪れる猿田彦神社ですが、授与品の猿面を玄関に掛けることで魔が“去る”と伝えられています。

初庚申大祭

猿が外から入って来ようとする魔に睨みを利かせているため、1年間を安寧に過ごすことができるのです。 また猿は木から落ちないため、受験生の合格祈願として猿面を受けられる方々も多く、猿田彦の神徳はこの地にパワーをもたらしてくれています。

「高取焼」

三.「高取焼」

黒田長政公は文禄・慶長の両役に参加した帰国の折に良陶工「八山」を見出されて筑前に連れ帰られ製陶所の開窯となりました。 これが高取焼の創始になります。享保元年(1716年)には早良郡祖原に東皿山窯が開かれ現在に至っています。

「高取焼」